「密やかな結晶」 小川洋子
「密やかな結晶」 小川洋子 講談社文庫
昨年出た「博士の愛した数式」という本が気になっている小川洋子の書いた長編。99年に出版されてから重版されてないようで、割と入手が難しい1冊でした。2月に読んだ「偶然の祝福」よりも物語性が強い1冊でした。小川さんは川上弘美さんが愛読しているとかで、割と気になる作家ですね。芥川賞をとった作品は未読ですがいつか読んでみようと思います。
この作品は、とにかく設定が命の作品。とある島が舞台になっていて、その島では、ある日突然、ある品物に関する記憶が人々の頭から消失するという現象がおこります。「バラの花」が消失した日には、街中のバラの花が風邪に飛ばされて川に流されてしまい、人々の頭の中からは、バラの花の姿や香がどんなものだったかということも失われ、それ以降は、バラの花に関して何か特別な感情を持つこともなくってしまいます。このようにして、様々なものの記憶が失われていくこの島では、「失われたものを記憶していること」は罪になり、たまに現われる記憶を失わない人々は秘密警察に連行されてしまう。主人公である作家は、母親を秘密警察に連行されてしまい、1人で暮らしていて、彼女が近所の老人と一緒になって、記憶を保持できる編集者の男を自宅の隠し部屋にかくまうというのがメインのストーリー。この作品では、記憶が消失する日の朝というのをとても印象的に描いていて、先に出したバラの場面なんかはとてビジュアルを感じることのできる描き方をしていました。
秘密警察というのが、ホロコーストを強く連想させるような描き方をされていて、隠し部屋のくだりは、「戦場のピアニスト」そのまま。架空の出来事を描きつつも、こういう現実に起きた出来事を描いていて、なかなかの緊張感のある作品でした。本当にストーリーもとてもよくできていて、アイデアも素晴らしい作品なのですが、語り手である「わたし」の立場が不明瞭(物語中では記憶を失っているのに、語り手は記憶を失っていないとか)だったり、記憶を失うという度合いの設定が曖昧な点があって、この面白い設定を消化しきれていないような印象もありました。50ページくらいの短編でも描けそうな内容を400ページ近い長編で描いていて、なかなか内容も盛りだくさんなだけに、こういう部分がとても残念ですね。個人的には、作中で主人公が書く小説がとても好きでした。
「記憶」って何でしょうね。この作品における記憶の失い方をすると、例えば、「木」に関する記憶を失ってしまえば、木が何のことだか分からなくなって、それを見れも何も感じなくなるとのこと。つまり「空気」のような存在になってしまうのでしょう。目には見えないし、誰も気にもかけないけど、世の中は素敵なもので溢れているんだよ、というようなメッセージが聞こえてきそうな作品です。記憶を失わない人と、主人公とが失われたものについて語る場面はとても印象的で、もしかしたら、現実にいる自分たちも何か大切なものを失ったまま気が付いていないのかもしれないなぁとか考えたりしました。
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