映画「ヒトラー 最期の12日間」
「ヒトラー 最期の12日間」 2004年 ドイツ
舞台は敗戦がすぐそこまで見えている1945年のベルリンの地下要塞。ヒトラーとその周囲の人々が、敗戦を迎えるまでの12日間をいかに過ごしたのかが描かれます。メインは原作となった手記を書いたヒトラーの秘書となった女性の視点で描かれており、彼女の目を通して、「ヒトラー」という一人の人間が描かれると同時に、一人の独裁者に翻弄される側近達とその家族、そして、ベルリンに暮らす一般市民たちを描く群像劇です。邦題は「ヒトラー」となっていますが、原題は「陥落」という意味のようで、実際の映画もヒトラーが死んだ後も40分くらい続きます。
ヒトラーを一人の人間として正面から描くというのは映画界のタブーだったそうです。実際にこの映画は、色々な団体から激しく非難もされているそうですが、この映画は決して、ヒトラーを人間として描くことで彼を正当化しようとするものではなく、かえって、とても力強い反戦映画なのだと感じました。ヒトラーお気に入りの秘書の視点で描かれるヒトラー像は、あの冷徹な独裁者ではありません。過ちを問い詰められれば、逆上し癇癪を起こし、第1次大戦での「降伏」の屈辱を二度と味わわないために最後の最後まで自己のプライドのために戦う一方で、子供達を愛し、女性秘書に優しく接する一人のどこにでもいる人間です。そしてまたその側近達も、ただヒトラーに従うことで自己の行為を正当化し、負けを確信しつつも、決して屈しようとしない独裁者に付き従うしかない弱い人間。この映画ではむしろ、ヒトラーに反抗して、逃げ出す者が悪いようにすら感じられるのですが、これこそが戦争のもつ怖さではないでしょうか。映画のラストに、手記を残した秘書の女性本人が晩年答えたインタビュー映像が流れるのですが、その中で、彼女が言う言葉はとても印象に残りました。このメッセージを聞けただけでも、価値のある2時間半だったかもしれません。
この映画、監督さんは「es」と同じ人。「es」では、普通の一般市民が、心理学実験の名の下に、特殊環境下に置かれただけで、モンスターに変貌していく様を描いていましたが、この映画では「実験」ではなく、戦争という現実に起こったできごとの中で、一般市民がモンスターに変貌していき、やがて迎えた悲しい結末を描いているように思いました。そう、これまでの映画で描かれてきたような、残忍な独裁者としてのヒトラーや、冷たい悪者としてのナチスの姿はこの映画には皆無なのです。そうするしかなかった悲しい人々を哀れみの目で描いた映画とも捉えることが可能でしょう。一度坂道を転がり始めた車輪を自らの力で食い止めることができなくなってしまった人々のお話です。ナチスの最盛期の話を全く描かず(ホロコーストの至っては全く触れられない)、「最期の12日間」に絞って描いたことで、なおさら、その哀しみが際立っていました。
カミュの「ペスト」ではないけれど、まさに戦争は不条理。そして、その不条理に飲み込まれた人間は本当に弱いのです。かつては一人のカリスマとして、独裁者として、トップに立っていたであろう男の背中の小さなこと。そしてまた、信じるものを持っている人間は本当に強い。負けを確信して、防空壕の中で酒びたりになる将校たちよりも、ナチスに生涯をささげる夫人や、ユーゲントの子供達のほうがはるかに人間として輝いているのです。その凛とした顔の美しいこと。彼らも、真実をよみとることができず、独裁者に付き従うしかなかった弱い人間であることにはかわらないのですが、弱さの中にある芯の通った強さが、戦争というものの哀しみを強調しているように感じました。
戦後60年、ドイツ人は自らの手で、あの12日間を再現し、現実と向き合いました。あの日の自分は無知だったのだと言い訳をせず、「目を開いて」真実と向き合うことこそが、最大の教訓なのでしょうね。色々なことを考えさせられる映画です。2度見るのはつらい場面も多いのですが(突発的に銃殺シーンが入ったりしますからね。戦場のピアニストよりもずっと目をそむけるようなシーンが多いです。)、1度は見てみてソンのない映画ではないでしょうか。そして、今もこの地球上でこの映画と同じような日々を過ごしている人々がいるという事実にもしっかりと目を向けなければいけないのだと改めて感じました。小説「朗読者」といい、最近のドイツは、ようやく本当の意味で戦後をむかえつつあるのかもしれませんね。
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コメント
先日はウチにいらしていただきありがとうございました!
>この映画では「実験」ではなく、戦争という現実に起こった
>できごとの中で、一般市民がモンスターに変貌していき、
>やがて迎えた悲しい結末を描いているように思いました。
これはおっしゃるとおりですね。しかしその「悲しさ」を糧に何が生まれるのか? 実は「自己憐憫の拡大再生産」をもたらすだけではないのか? というようなことが数十年前からドイツ国内では議論されていました。よくも悪くも、日本では真似できないドイツ理屈社会の執念を感じさせる話です。
そういう観点から見ると、ベルンハルト・シュリンクの小説『朗読者』で、文盲であるゆえの社会的コンプレックスを「ナチになった理由」としていることは、作品全体のトーンに反してナチ当事者に対しひそかに免罪符的な効果をもたらしている、と批判的に見ることも可能だったりします。興味深いところです。
投稿: 桜樹ルイ16世 | 2005年11月17日 (木) 22時39分
> 桜樹ルイ16世さん
TBに引き続き、コメントもいただきありがとうございます。
自分は、映画や本などから得た偏った知識しかないので
ドイツ関連の深い知識をお持ちの方のコメントを
とても興味深く拝見させていただきました。
「朗読者」、自分は、ナチ関連の話だとは全く知らずに
読み始めて、途中からの展開にかなり驚き、
その衝撃のまま読み終えてしまったという感じなので、
そのような批判的な読み方も可能だという御意見、
とても面白く感じました。
投稿: ANDRE | 2005年11月19日 (土) 19時55分