「わたしたちが孤児だったころ」 カズオイシグロ
「わたしたちが孤児だったころ」 カズオイシグロ ハヤカワepi文庫
映画にもなった名作「日の名残り」のイギリスに帰化した元日本人作家カズオイシグロによる作品。「日の名残」は映画も小説も文句なしの名作で、彼の作品を読むのは2作目なので、楽しみにしてました。その割りに、ちょっと前に買ったものの、なかなか手を出せずにいたんですけど、いざ読み始めたらあまりの面白さに一気に読み終えてしまいました。
舞台は1930年台。主人公クリストファーは幼い頃を上海で過ごしたのだが、両親が相次いで失踪してしまい、その後、イギリスの親戚の家に引き取られたという過去を持つ。その後、成長した彼は探偵として成功し、ロンドン社交界ではちょっと名の知れた存在になる。そして、彼は、両親を探し出すために日中戦争のさなかの上海に渡るのだが・・・。というお話。果たして、彼は無事両親と再会できるのか、そして、この事件の裏に隠された衝撃の真実とは!?という一見すると、ミステリーか探偵小説かというような雰囲気なのですが、そういうエンターテイメントの殻を被った、壮大な純文学で、なかなか面白い作品でした。序盤ではロンドン社交界をじっくりと描き、中盤では、隣に住んでいた日本人の少年との思い出を中心に少年時代を回想し、そして、怒涛の勢いでドラマチックに展開していく後半と、様々な表情を持った作品です。
「ナイン・インタビューズ」という本の中でも、イシグロ氏が自ら語っているんですけど、この作品の最大の特徴は、語り手である主人公が「信頼できない語り手」であるという点です。過去を回想する場面が非常に多く登場するのだけれど、美化された思い出や長い年月をかけて勝手に解釈された記憶である場合が多く、そこで記述されることが「事実」であるとは限らないのです。そして、これはまた、作中の他の登場人物とのやりとりとの間でも、思い出の食い違いなどが登場することで、より一層アピールされています。そもそもの、この主人公の男がまたそこまで愛すべきキャラクタでもなく、作品の後半にいたっては、いきなりキレだして、もはや主人公(しかも語り手)にもかかわらず、手がつけられないような状況になってしまったりします。そんな「不安定な語り手」をとても上手く表現して、生かし、読者に、妙な不安感や、複雑な感情を与える作者の筆力は特筆すべきものです。
また、この作品は、少年時代をすごした上海に戻る主人公が、そこで、地獄を見るというような流れになっていて、美化された思い出、厳しい現実、そして、そこで揺れるアイデンティティが、作者であるイシグロ氏本人のバックグラウンドと重なることもあって、かなり迫真に迫ったアプローチになっています。そして、これはまた、幼少の頃を海外で過ごした僕自身にも重なってくる部分があって、なんだか他人ゴトではないような不思議な感覚に襲われました。そして、また、探偵が何かを捜し求める過程でアイデンティティの崩壊に向かい合うという設定は初期オースター作品そのもので、大分趣は違うのだけれど、オースターファンとしては、ちょっと嬉しい収穫でした。
エンターテイメントとして見たとき、後半の展開はあまりにも怒涛すぎるんですけど、個人的には、ラスト近くのシーンは結構胸にぐっとくる部分もあって、目頭が熱くなりました。あと、20世紀初頭のロンドン社交界を描く部分は、イギリス好きとしては、なかなか嬉しい場面だったし、少年時代の回想は普通に読ませるストーリーだったしで、全体的に映画とかにしてもなかなか面白くなるのではないかと思います。文学的な部分を出せなくて、ちょっと安っぽい歴史ものになる可能性も大ですが・・・。(イアン・マキューアンの「愛の続き」&映画版「Jの悲劇」とかそうだったもんね。)
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コメント
一見すると探偵が主人公の探偵小説風だけれども、
描かれているものは、いわゆる探偵モノではなくて、
やっぱり一筋縄ではいかない描き方でしたね。
相変わらず(?)、主人公は自分勝手に話を進めるし、
丁寧な説明をしてくれる気もないっていうか。
それがこの方の作品の魅力で、そこが好きではあるんですけど。
先日のTV番組で、ご本人は
「自分ではなく作品を観てくれ」ということを仰ってましたが、
いや、あの静かな話し方や淡々とした態度、知的な風貌に
作品以外でもすっかりファンになってしまいまして(またか)、
未読の作品も読まなくちゃ、と(笑)
残りの未読の作品も、ぼちぼち読んでいきますね。
投稿: 悠雅 | 2011年5月 4日 (水) 16時37分
>悠雅さん
コメントどうもありがとうございます!
そして、ついにお読みなられたのですね!
一瞬、探偵小説?と思ってしまうものの、
そこは流石のイシグロ作品で、
これまた厄介な語り手に振り回される小説ですよね。
この小説を読んだ後に「上海の伯爵夫人」を見たのですが、
明らかに同じ取材をベースにしているんだなという舞台設定で
映画を見て、この小説の作品世界の雰囲気を映像で見られたのは
とても嬉しかったです。
これはこれで映画化しても面白いのではないかと
思うんですけどねぇ。
「ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち」
という本があるのですが、
「わたしたちが~」の刊行直後の
イシグロへのインタビューが掲載されていて
なかなか面白いですよ。
投稿: ANDRE | 2011年5月 5日 (木) 22時36分