映画「フライトプラン」
「フライトプラン」 2005年 アメリカ
ジョディ・フォスター主演で、劇場公開時に割と派手にプロモーションしていたのが記憶に新しい作品。飛行機の中で子供が行方不明になるが、乗客・乗務員の誰もそれに気がつかないという予告編の内容に果たしてその真相が何なのかとても気になってしまって、レンタルしてしまいました。
航空機技師をしている主人公カイルは夫を事故で亡くして、住んでいたドイツから故郷のアメリカへ戻るために娘と共に最新鋭の旅客機に乗り込む。心身ともに疲れ果てていた彼女は離陸後まもなく深い眠りに陥る。目を覚ました彼女は、自分の娘の姿が見当たらないことに気づき、飛行機内を探し始める。しかし、どこを探しても娘の姿は見当たらず、挙句の果てには、乗務員に搭乗記録には娘の名前が載っていないと言われてしまう。果たして、娘の存在自体が妄想だったのか、それとも、何かの事件なのか、様々な憶測が飛び交う中、彼女は娘が何者かによって機内で誘拐されたと信じ、真相を究明しようとするという物語。
この映画、事件の真相が何なのかが観客の最大の関心事であることは間違いがないと思います。果てして、彼女の妄想なのではないかなど、見ている我々に色々と考えさせながら、展開していく前半部分は、あれやこれやと思いながら、かなり没頭してしまいました。しかし、事件の真相が割りとあっさりと中盤で明らかになってしまって、それ以降は、単なるアクション映画と化してしまうので、前半の緊張感が途切れてしまうのが残念でした。事件の真相自体にはツッコミどころの多いものではあるけれど、「フォーガットン」のようなトンデモ感がなかったのはせめてもの救いですね。
この映画では主人公の描き方が特徴的で、割と意図的に見ている観客側が彼女に感情移入できないような演出をしています。ヒステリックに機内で子供を捜しまわる姿を、ひたすらに見せることで、あまりに身勝手な行動の数々に嫌悪感を感じる人さえいるかもしれません。そうすることで、「もしかしたら全ては彼女の妄想なのではないか」という推測を我々に与えるように、かなり上手く誘導していき、それが成功したあたりで「搭乗記録がない」などの事実をつきつけていくあたりの運び方はとても良かったと思います。
さらに、この映画の演出の面白いところは、主人公に感情移入させないことによって、我々観客の視点を飛行機内の他の乗客の視点に持っていく点ではないでしょうか。子供がいなくなったと騒ぐ女性を見て、「おや?」と思い、やがて彼女が異常とも思える行動を取り始めると、「もしや彼女自身がおかしいのでは?」と感じさせ、アラブ人が登場すれば、「もしや彼らが?」「いや、そんな差別はよくない」と色々な意見を飛び交わせて、そして、ラストに全てが明らかになったときに、「いや~、そんなことなんじゃないかと思ったよ」なんてことを言う乗客たちの姿は、映画を見ている我々の思考とかなりリンクしていたように思います。だからこそ、乗客たちが登場しなくなる後半の展開で、急に我々観客が置いていかれたような感じになり、あれよあれよと言う間にあっさり終わってしまった感じがしたのではないでしょうか。
そう考えると、ツッコミどころがかなり多いのは事実ではあるけれど、妙な無関心さや、つい差別してしまう心情(映画のお決まりパターンの皮肉ともとれる)、事件後に我が物顔でそれを振り返るなどの、群集心理を観客である我々に追体験させるこの映画はなかなかよくできているのではないかと思いました。まぁ、サスペンスとしては、B級であることには変わりませんが・・・。
<微妙にネタバレな意見>
ところで、ネットでこの映画の感想を見てみると、相当数の人が「アラブ人への謝罪がないのはおかしい」と書いていました。日本の国民性みたいなものが顕著にあらわれていてなかなか面白いなぁと他人ゴトのように感じてしまいました。自分も、謝罪しないんだなぁとは思ったけれど、やっぱりなぁとも思いました。この場面で日本的な謝罪は恐らくしないだろうと。欧米では「謝罪」の持つ意味がもっともっと重くて、全ての責任が100%自分にあるということを認めることになると認識しています。しかし、実際の彼女は被害者で、娘がいなくなったから騒ぎ立てたわけなので、それが事実だったと証明された今、なかなか謝罪までは到達しないのではないかと思います。むしろ、鞄を手渡して、互いにアイコンタクトをする描写がわざわざ挿入されているのが、日本流の「謝罪」を十分に表現しているようにも思えます。実際、海外での感想を見てみると、驚くほどに日本で見られるこのような意見が少ないのです。このあたりの感覚の違いが映画の感想なんかに如実に出てくるのはなかなか面白いなぁと勝手に思ってみました。
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