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2009年11月22日 (日)

「六白金星・可能性の文学」 織田作之助

六白金星・可能性の文学 他十一篇 (岩波文庫)

六白金星・可能性の文学
他十一篇

織田作之助

岩波文庫 2009.8.
(original 1945-46)

新潮文庫から出ている短編集「夫婦善哉」、角川文庫の長編「青春の逆説」に続き、オダサクを読むのは3冊目。新潮の短編集と被る作品もちらほらとあるんですが、評論「可能性の文学」は読む価値の高い内容だったと思います。

収録されているのは短編9作と評論2作。

既に読んだことのある作品ではあったものの、「アド・バルーン」は何回読んでも本当に面白い作品だと思います。内容も語りも大好きです。

オダサクの醍醐味であると勝手に思っている、軽妙な語り口はやはり読んでいてとても楽しくて、そこに、これまた彼の作品の醍醐味である、運命に翻弄されながら生きていく人々の物語に引き込まれてしまいましたね。

以下、収録作品で今回初めて読んだ作品ごとにコメントを。特に「可能性の文学」に関しては、現代でもなお深い溝があると思われる日本文学と海外文学に関していろいろと考えさせてくれる評論だったのでちょい長めに感想を書いてます。

・「道なき道」

趣味で音楽をたしなんでるものとしてはこういう音楽ものは結構ひきこまれる題材です。

そういう生き方しかできない父親の姿がとても印象的な一篇。

 

・「髪」

今回新しく読んだ作品の中では一番好きなのがこれ。とにかく語りがたまりません。「私の周囲には佃煮にするくらい阿呆が多かった」の一文で完全に惚れてしまいましたよ。

最後の最後、主人公が感じる苦々しさは相当のものだったろうな、と。

 

・「表彰」

これぞオダサク!な一篇ですね。たかだが20ページほどの中に人生をぎゅぎゅっと凝縮して描く。これぞ「可能性の文学」だということなんだろうなぁ。

 

・「女の橋」「船場の娘」「大阪の女」

最初、登場人物名を使いまわしているのかと思いきや、つづきものでした。「表彰」同様に、運命に翻弄される女性を描いていますが(たいてい男がダメダメなんですが)、こちらは会話分を駆使ししていることもあって、戯曲やドラマを見ているかのような臨場感があります。

3部作の中では「船場の娘」の余韻がたまりません。

 

・「可能性の文学」

文壇の神とさえあがめられた志賀直哉を頂点とする私小説に傾倒する日本の文壇に対し強い警鐘を唱える評論。

私小説のように実際に起こったことをベースに書いて評価されるようでは今後の日本文学の行く末が心配だというお話です。もっと物語を書こう!みたいな。

結局、現代においても日本の文学って、特に純文学と呼ばれるジャンルは、完全なフィクションであれ、私小説の延長であるような作品が高く評価されたり、人気を集めていると思うんですよね。小説の中に日常性を求めるというか。

逆に、運命に翻弄されるような物語性の強い作品って、深いメッセージがあったりしても、「非現実的」な印象を強く与えてしまったりして、なんだかんだでそういった類の作品はエンタメ小説というジャンルの中でのほうが高く評価されている気がします。

オダサクが述べるように、小説なんだから、嘘があって当然なんですが、やたらとリアリティを重視して、読者にいかに共感を与えるかということで評価される傾向は非常に強いですよね。自分もそういう作品は嫌いではないんだけれど。

海外の作家ってそういう意味で、現代でもオダサク的「可能性の文学」を追究している作家は沢山いるように思います。

で、読んでいて思ったんですけど、現代日本において、「可能性の文学」が非常に高いレベルで展開しているジャンルが1つあるのではないかと。

コミック。

漫画のストーリー性の高さって半端ないと思うんですよね。しかもその中に、ちゃんと深いテーマやメッセージをこめることにも成功している作品が沢山あります。結局、「漫画」というジャンルは最初から虚構であることが前提になっている部分が強いと思うので、小説のようにリアリティや共感要素が多少崩れても気にならないんだろうな、と。

平野啓一郎が『文明の憂鬱』の中で、手塚治虫のブラックジャックを取り上げて、漫画というジャンルは、どこかありえない部分があっても「漫画だから」ということで片付けられてしまう点で都合がよいというようなことを書いていたけれど、本来は小説だって、「小説なんだから」で成り立っているジャンルなんですよね。

じゃ、なぜ日本の小説でリアリティや共感が評価されるのかということを考えていて思い出したのが、以前聞いたことのある話。例えば川端康成の『雪国』の冒頭なんかで顕著なんですが、日本語は主語の省略なんかが可能なこともあって、地の文でありながら、読者の視点をそのまま語りの視点に被せてしまう言語で、例えば、

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

という文を読めば、我々はこの文の語り手と一緒になって自分の視界を車窓を眺める男に重ねることができ、こんなかんじで日本語だと、登場人物視点で物語を眺めることが割と容易なわけです。

一方英語だと、主語が必要なこともあり、「列車がトンネルを抜けると・・・」というような表現になってしまい、どうしても客観性が強くなってしまう。その結果、物語をその場面を俯瞰する視点で見ることがのほうが多くなるわけです。

これってそのまま、物語の作り方そのものに主観性を追究するか、客観性を追究するかという方向につながって、日本の文学と海外の文学の性質の違いにたどりつくんじゃないでしょうか。主観性逆にコミックだと「絵」という要素が客観性につながることで、物語性につながりやすい、とか。

客観的、俯瞰的視点から「人間の可能性」を描こうとすると、やはりエピソードの連続から描くほうが描きやすいだろうなと思います。一方、主観的で内側からのベクトルで「人間の可能性」を描こうとすると、五感を刺激する形で物語を紡ぐほうが良いし、読者が登場人物の視点に入り込みやすい環境を整えるという点で、リアリティがもとめられるのかなぁとか思ってみたり。ちなみに僕は日本の作品も結構好きですよ。

オダサクの文体って、結構、主観性を強く感じさせてくれながら、抜群の物語性があるところがとても面白いんだよなぁ。

なんてことをちょっと思ってみた今日この頃なのでした。非常に面白い評論だったと思います。

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